羊の話
卒論書くために羊をとにかく読み込んでいて、そして読むたびに湧き上がってくるこのわっとなる感覚を、誰とも共有できないので、ここで語らせてください。笑
改めて思うんだけれど、社会へのコミットメントが完了するまでの、この人の持つこの感覚が、ぎゅっと抱きしめたくなるくらい愛しいです。キュンとするとか、そういうんじゃなくて。共感なのかなぁ...ことばにならない。
以下少し長めに引用しますので、読みたくない方は引き返してくださいねー
-----引用開始
「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
「人はみんな弱い」
「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ」
(略)
「一般論は止そう。さっきも言ったようにさ。もちろん人間はみんな弱さを持っている。しかし本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なものなんだ。たえまなく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない」
(略)
「結局のところ、俺が羊の影から逃げきれなかったのもその弱さのせいなんだよ。俺自身にはどうにもならなかったんだ。(中略)」
(略)
「そのあとには何が来ることになっていたんだ?」
「完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化するんだ。その中心に俺と羊がいる」
「何故拒否したんだ?」
時は死に絶えていた。死に絶えた時の上に音もなく雪が積もっていた。
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「わからないよ」
この引用の、最後の鼠の語りの部分は、何回読んでも泣いてしまう。
この「鼠」という人物は「僕」の古い友人で、「完全にアナーキーな観念の王国」をもたらそうとしている「羊」を抹殺するために、自分の中にその「羊」を抱え込んだまま自殺している。そして最後に、暗闇のなかで「僕」とこんな話をして、ドアを開けて出て行く。
さいごにドアを開けて鼠が出て行く場面も、すごく微妙な、もう少しで崩れてしまいそうな空気があって、とても絶妙です。わたしはこの、いわゆる青春四部作と呼ばれる村上春樹の作品は、感情移入しないで読めない。物語をそっくり肺の中に入れて鳴らすように、全霊で共振する。
わかる人には説明しなくてもわかるし、わからない人には説明したってわからない、という感覚って、どんなものにしろ絶対にありますよね。それを自然と共有できる人同士でいれば心地いいし、そうでなければ新鮮かもしれない。村上春樹の初期作品って、このわかる人にはわかるという色が濃いような気がする。『当時の若者を中心に、カルト的な人気を博した』ように、昔から人気作家だけど、この時期ってどこか偏ってるのだ。(以降、"コミットメント作家"に転向してからは、ノーベル賞候補になったり色々してるけど)
この「弱さ」の感覚のなかで、引用した鼠のさいごの言葉は、せつなすぎる。本当にそうなんだもん。それが弱さだとしても、捨てることができない。
わたしがあんまり好きだ好きだと言うので、読んでくれる人はたくさんいるんだけれど、未だに「良かった!!」と言ってもらえたことがないです。笑 今となってはベストセラー作家なのに、割とマイノリティな人が多いのかしら。かと言って、語り合いたくてmixiのコミュニティとかにいくと、作家性もあんなんだから、専門的というか、文学者の論評会のようなレベルに行ってしまっていて、共感とかそういう青くさい感情で話ができる雰囲気じゃないんだよねぇ。わたしは青くさい話がしたいよ!
中学生のときからずっと、何度も、読み続けている作家だけれど、歳を重ねるとどんどん解釈や感じ取れることが変わっていく。だからいつまでもおもしろいし、大好きな作品たち。短篇でも高いレベルでおもしろいと思うし。本当に、自分にとって最高の作家に出会えてるんだなぁ...うれしいな。
と、気持ちを盛り上げて、はりきって論考してきます。来週の水曜日に30枚提出だぜ\(^o^)/